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あの日、夕日に願ったこと 家族の笑顔から始まる100年企業への挑戦

第1章 父の言葉と最初の気づき
「自分でことを起こすのは、面白いぞ」
——小学1年生の冬、父がふと口にした言葉です。
あの夜のことは、今でもよく覚えています。
母が夕飯の支度をしていると、甘く香ばしい匂いが家の隅々まで広がっていました。
その匂いに誘われて台所へ行くと、オーブンの中では大きな肉の塊がじっくりと焼かれていました。
こんがりと色づいた表面からは肉汁がじわりとにじみ出し、下に敷かれた野菜に落ちて、かすかに「ジュゥ」と音を立てています。
昭和五十年ごろのことだったと思います。
家庭用のオーブンがようやく少しずつ普及し始めた時代で、まだ珍しい光景だったはずです。
そこへ父が仕事から帰ってきました。
「おっちゃんが、テレビに出てた!」
父が、玄関を上がるなり、僕は声を弾ませました。
父はにっこり笑い、「そうそう、見たんか。すごいやろ。お父さんたちの会社のことを、いろいろ聴いてくれてたんやで」と言いました。
そのときは、理由なんてわかりません。
ただ、父の声が少しだけ誇らしげに響いて、僕まで胸があたたかくなったのを覚えています。
あとになって知ったことですが、あの頃はツナギ服が流行の真ん中にありました。
ロックバンド、宇崎竜童が率いるダウンタウン・ブギウギ・バンド。
彼らがステージで着こなし、歌い、踊る姿が若者の心をつかんでいたそうです。
その波が父たちの会社にも届き、3代目社長である父の兄がテレビに出演していたのだと知りました。
その会社は、僕の曾祖父・辰二郎が明治の終わりごろに始めたツナギ服のメーカー。
ちなみに僕の名前「辰尚」の“辰”は、そのひい祖父からもらったもの。
いまも会社は存続し、百年以上続いています。
辰二郎には会ったこともないのに、話を聞くたびに、どこか近くに感じるのも自分の名前の由来を聞いたからなのでしょう。
「ひいおじいちゃんみたいに、自分で会社を作るのもいいんじゃないか」
軽く投げかけられた言葉は、すっ~と胸の中に残りました。

その日、その時から、「自分で何かを始める」という思いが、少しずつ自分の中に混ざっていったのだと思います。
その当時、夜の廊下が怖かった僕は、新聞の折り込みチラシを広げ、住宅の間取り図をよく眺めていました。
食卓とトイレが近い家。自分の部屋と食卓がすぐ行き来できる家。
暗い廊下を通らなくてもいい間取りは、僕にとって理想そのものでした。
そんな家はなかなか見つかりません。
だから、間取り図を参考に自分で描き始めました。
ある日、紙に鉛筆を走らせていると、台所からジューサーの「ガリガリ」という音が響いてきます。
やがて母が、細かな氷が混ざった手作りのトマトジュースをそっと置き、「今日はどんな家なん?」と笑いながら覗き込みました。
キンキンに冷えたグラスの表面にはたくさんの水滴が滴っています。
ひと口飲むと、冷たさと特別な甘み、そしてもぎたてのトマトの青い香りが広がります。
グラスを置いて、また鉛筆を握る。
怖さを克服する間取りから始まり、やがて庭を池で囲み、橋をかけ、小さな森をつくる。
ほとんど城のような家を描き上げては、母に笑われました。
夕食時、その絵を見た父はまた言うのです。
「そういう家を、自分で建ててみたらどうや」
この頃が「空想する楽しさ」と「何かをつくる喜び」に初めて出会った時間でした。
その感覚は、やがて料理という形で戻ってくることになります。

——あの頃、当たり前のようにあった温かな食卓。
振り向けば、いつも夕焼けに染まる生駒山があり、その向こうに沈む陽に、その日の楽しさを胸の奥にきゅっと閉じ込めて、「明日はなにしよう」って感じていたのです。


第2章 挑戦の原動力
小学1年の三学期も終わりに近づいたある日のこと。
授業の最中、突然先生に名前を呼ばれました。
「今すぐ家に帰りなさい」
理由もわからず、姉と二人でランドセルを背負い、戸惑いながら下校しました。

家に着くと、母の姿はなく、家の中はひっそりと静まり返っていました。
そこへ、おばあちゃんが慌ただしく駆け込んできて、切羽詰まった声をあげました。
「今から名古屋へ行くから、すぐに支度しなさい!」
驚いて固まる僕たちに、さらに続けます。
「お父さんが、名古屋で倒れたの。お母さんはもう先に向かってるから」

それ以上の説明はありませんでしたが、幼い心にもただならぬことが起きているのは伝わりました。
胸の奥がざわざわと騒ぎ、急いで荷物をまとめて、母の後を追うように名古屋へ向かいました。

——父は出張先の商談中に、くも膜下出血で倒れたのです。

夜遅くに病院へ到着したとき、僕の目に飛び込んできたのは、頭に白い包帯をぐるぐると巻かれ、意識なく横たわる父の姿でした。
「手を握ってあげて」
そう促され、恐る恐る差し出した小さな手で父の手をぎゅっと握りました。
冷たいのか温かいのか、感触ははっきりしません。
ただ、心臓がバクバクと音を立てているのを感じながら、必死にその手を離すまいとしました。

手術は無事に終わったものの、「意識が戻るまでは安心できない」と告げられました。
けれど翌日、奇跡のように父は目を開けました。
顔色は青白く、声もほとんど出ませんでしたが、目の端をほんの少しだけ上げて、合図のように笑みを浮かべてくれたのです。
その表情を見た瞬間、胸の奥から安堵と涙がいっぺんに込み上げ、幼いながらに心に深く刻まれました。

しかし、そこからの暮らしは以前のようには戻りませんでした。
父は入退院を繰り返すようになり、母も家計を支えるためにパートに出るようになりました。
夕方の食卓は一変し、あのにぎやかな団らんは次第に消えていきました。
夜の九時ごろに帰宅する母を待ち、お弁当やお惣菜を広げることが多くなったのです。

 

数年が過ぎ、僕が中学生になる頃になっても、父の入退院は続いていました。
そして、高校入学を終えたばかりの6月、とうとう父は帰らぬ人となりました。

その時になって初めて、母から聞かされました。
名古屋で倒れたときの輸血が原因で肝硬変を発症し、最終的には肝臓がんと闘っていたのだと。
当時の医学では、がんの原因はまだ十分に解明されていません。
母はうすうす気づいていたようですが、父にも僕たち家族にも告げず、「必ず良くなる」と信じ続けていたのだと知りました。

僕には覚悟がありませんでした。
必ず回復すると信じ切っていた分、突然訪れた別れを受け入れることができなかったのです。
「人は死ぬのだ」
ただその事実だけが胸に突き刺さり続けました。

——そして、思い返すたびに蘇るのが、あの言葉です。
「自分でことを起こすのは、面白いぞ」

父がどんな思いで口にしたのか、当時の僕にはわかりませんでした。
けれど、その言葉は僕に何かを託そうとしていたのだと感じていました。

父を失ったことで、僕は初めて「限りある命」というものを強く意識しました。
もっといろいろ話したかった。もっと一緒に過ごしたかった。
その思いは、やがて「父ができなかったことまで含めて、僕が挑戦してみよう」という原動力へと変わっていったのです。



第3章 想いと現実のあいだで

初めてのフレンチ厨房と本気の修業

高校3年生の頃になると、夢は、はっきりとしていました。
建築の道に進み自分の事務所をもつこと。それが自分の未来だと信じて疑いません。

しかし、現実はそう甘くありませんでした。
現役では志望校に届かず、一浪して挑戦したものの、合格できたのは建築学科ではなく土木学科。
「二浪はしない」と決めていた僕は、不本意ながらも土木学科に進学しました。幼い頃から描いてきた夢が崩れていくのを感じながら。

そんな宙ぶらりんな気持ちを抱えていたある日、高校時代の親友から声がかかりました。
「俺の働いてる喫茶店でアルバイトしないか?」
人生で初めての飲食の世界との出会いでした。

大学の講義には身が入らず、ノートも友人に借りるだけ。都市開発や建築への憧れは残っていたものの、授業は右から左へと通り抜けていきました。
それに対して、喫茶店での仕事は毎日が新鮮で、夢中になれました。紅茶を淹れること、お菓子を仕込むこと、お客さまに喜んでもらえること、仲間にも仕事がやりやすい!と言われたり。そんな体験が、想像以上に面白かったのです。

「このまま大学を続けていても駄目になる。じゃあ、自分のやりたいことは何だろう?」
そう問いかけたとき、浮かんだのは父からの言葉でした。——「自分でことを起こすのはどうだ?」

「飲食店」という未来。幼い頃から「自分で何かをつくりたい」と思っていた気持ちとも重なり、「自分の店を持つ」という希望が芽生えたのです。

思い返せば、手作りの料理は今の時代と違って、その当時にしてみれば当たり前の光景でした。
けれど僕にとっては、家族が集まって笑い合う食卓の時間と一緒に、台所から漂う香りや鍋の音、テーブルに並ぶ料理の温もり——そのすべてが今となってはかけがえのない思い出になっています。
母の料理は、みんなの心を満たし、同時に作る本人も癒していたのだと思います。
知らないうちにその時間が、僕の原点を育んでいたのだと今では感じます。

ただ、当時の喫茶店で任されていたのは、簡単な温めや盛り付け程度。
何も仕込めない僕が店を持てるはずがない。やると決めるなら、本気で技術を身につけなければならない。
そう思った僕は、大学を休学し、最も厳しい世界だと思っていたフランス料理に挑戦することを決意しました。

すぐさま、花屋に勤めていた姉に相談しました。
すると
「大阪の老舗フランス料理店が奈良に2号店をオープンしてね。うちが毎週そこに生花を納品してるんよ」
その縁で面接を受けさせていただくことになり、運よく働けることになったのです。

しかも、ちょうどその時期、本店の店長と次期料理長が研修のために2号店へ来ていました。
僕はまったくの偶然から、トップレベルのプロフェッショナルと同じ厨房に立つことができたのです。
——この偶然の出会いが、のちに大きな転機となりました。

仕事の厳しさも楽しさも、毎日が新鮮で、すべてが学び。
「やるしかない」という現場の熱量に引き込まれるうちに、「やっていけるかな?」という不安な感覚は、「やっていくぞ!」という意思へと変わっていきました。
僕は大学を辞め、本格的に料理の道へ進むことを決断し本店への就職を申し出ました。

本店に採用されてからが、本当の修行の始まりでした。
調理師学校を出ていない僕にとって、すべてが知らないことばかり。先輩たちの視線は厳しく、「本当に続けられるのか」と突きつけられているようでした。
本店での初営業日。
それまでの研修期間中に叩き込んだはずの知識も吹き飛び、オーダーの波を前に体はまったく動かない。
ただ邪魔にならないように立ち尽くすばかり。洗い物すらまともにできず、情けなさが募っていきました。
そんな状況が数カ月つづき、ようやく任されたのはデセール(デザート)の仕込みでした。材料の発注や在庫管理を先輩に何度も教わり、必死に覚える日々がつづきます。
専門学校を出た同期との差は歴然で、知識も技術もスピードも、何ひとつ敵わない。自分の無力さを痛感しました。
けれど、その忙しさこそが修行の本質でした。
「どうすればもっと速く」「もっと美しく」「もっと効率よく」——そう問い続ける習慣が、自然と身についていったのです。
今の時代では考えられないですが、
朝7時から終電近くまで働き詰めの日々でした。
それでもデザートの仕込みだけは不思議と時間を忘れて没頭でき
「やればやるほど上達する」という感覚が、僕を支えてくれたのです。

限界と、その先にあった光
しかし、心と身体の限界は確実に近づいていました。
ある朝、鏡に映った自分の頭に、10円玉ほどの円形脱毛を見つけました。
それはすぐに後頭部へと広がっていったのです。
「時間とともに治るよ」と言われても、当時の僕にはそうは思えませんでした。
鏡をのぞくたびに心が曇り、情けなさや不安ばかりが頭を占めました。
「また怒られるかもしれない」
「あれもこれも間に合っていない」
「次も何か言われるかも」
「次の休みが早く来てほしい」
未来への不安にばかり囚われて、肝心の“いま”に集中できていなかったのです。
でも、このときにひとつ気づきました。
“今できることに、ただ没頭するしかない”。
頭ではそう分かっても、理想と現実の差を急いで埋めようとする気持ちばかりが先走っていました。
先輩に笑われても、何も感じなくなっていく自分。
「あっ……心が壊れる、、、」
あれほどに燃えていた向上心が音もなくしぼんでいくのをはっきりと自覚しました。
結局、そのハードルは僕には高すぎて、リセットする余裕も持てず、店を辞めたいと伝えたのでした。
当時の僕にとって、あの円形脱毛は、「情けない印」のように感じていました。
けれど今振り返れば、あれは 「自分という人間を知る機会」であり、「成長の入口に立っていた証」 だったのだと思います。
思いがけない救い
そんな折、思いがけない体験が訪れました。
——フランス三つ星レストラン「ラ・コート・ドール」のベルナール・ロワゾ―のもとで
活躍されていたスーシェフ、ジャン=ジャック・ブラン氏との出会いです。
ブラン氏が、神戸ベイシェラトンホテルに姉妹店を開業するために総料理長として来日。
ご縁があり、僕たちスタッフ全員が彼から直接「本物のビストロ料理とは何か」を学ぶ研修に参加するという、夢のような機会に恵まれたのです。
ブラン氏が「これがビストロの味付けだよ」と並べた数々の素朴な野菜料理を口にしたとき、言葉にできたのは
「美味しい、、」だけ。
今思えばそれらの料理は、素材の味がしっかりと引き出されていたものでした。
“本場の味”を分析するという初めての体験は、僕にとって感覚を磨くための大切な土台となりました。
数週間後に、次はブラン氏が僕たちの店に食事に訪れるという流れ。
店全体が今までにない緊張感に包まれ、厨房は怒号と張り詰めた空気で満たされていました。
僕にとっては、ブラン氏が来るからといって特別なことをする技術なんてありません。「いつも通りやろう」「叱られないようにしよう」と、強い緊張を持って臨んだのを覚えています。
料理の提供が始まると、料理長の顔つきが変わり、キッチンへの指示にもいつも以上の厳しさが現れ始めました。
先輩たちが提供した料理にブラン氏から厳しいフィードバックが次々とだされたようです。料理長の顔がどんどん曇っていくのでした。これまでにみたことのない張り詰めた空気が店全体を支配していたのがわかります。そして、すべての料理が提供され、最後のデセールの提供が終わった直後——
「おいっ!このムース・オ・ショコラ!誰が作ったんや!!」
シェフが鬼のような形相で厨房に飛び込んできたとき、僕の心臓は止まりそうになりました。
「次は、俺か……」「何かミスをしたに違いない」
そう思いながら、俯いたまま震える手を挙げると、シェフは僕に近づいてきて、そっと肩に手を置いて言ったのです。
「……よくやった」
耳を疑いました。何が起きたのか、最初はまったく理解できませんでした。
料理長は続けてこう言いました。
僕の作ったチョコレートムースが、ブラン氏から「これこそが本物のビストロのデザートだ。美味しい!完璧だ(Parfait)!作ったスタッフに伝えてくれ」と、唯一手放しで褒められたのだと。
極限の中で浴びたその言葉は、僕の全身を駆け巡りました。
よくやった?……よく?……やった?……美味しい?……伝えてくれ?
「よくやった」「美味しい」「伝えてくれ」
頭の中でその言葉を何度も繰り返しては、放心状態になり、笑顔になることすら忘れていました。
そして、気づけばまた作業が遅れないように、持ち場へ戻っていました。
数々の失敗を繰り返しながら、なんとか一人で作れるようになったムース・オ・ショコラ。
チョコレートを溶かすときに分離してしまったり、イタリアンメレンゲのシロップ温度を外してしまったり。
手が震えるほどの緊張と試行錯誤を繰り返したあの日々が、一瞬にして報われた気がしました。
「美味しい」という言葉が、これほどまでに人を肯定し、励まし、生きる力になるのだと——
その瞬間、全身で理解しました。
きっと、あの時、料理長は、覇気をなくしつつあった僕に「料理が持つ本当の力と喜び」を伝えようとしてくれていたのでしょう。
そして、この体験は僕にこう気づかせてくれました。
「美味しいという言葉が欲しいから努力するのではない。わくわくして、心から楽しんで料理を作るから、“美味しい”が生まれるんだ」と。
この二つの出来事は、今も強く心に残る「原体験」となりました。
「やればやるほど良くなる」という感覚が、確かな手応えに変わった瞬間だったのです。

やれるところまでやった

それでも、心身はもう限界に達していました。
入店から1年、僕は店を「去るしかなかった」という方が正しいのかもしれません。
会社の事務所や系列店に出向き、お世話になった方々に辞めること伝え回りました。

「やり切った」ではなく、「やれるところまでやった」——
それが正直な気持ちでした。
——それが当時の僕の正直な気持ちでした。
けれど今振り返れば、この1年はかけがえのない基礎を築いた時間でした。
自分の弱さに向き合い、失敗を経験として積み重ね、改善し続ける思考を身につけたこと。
そして「美味しい」という感覚や、「美味しい」という言葉そのものが、人を励まし、肯定し、生きる力になるのだと知ったこと。
調理師学校に行っていない分、すべてが凝縮された学びの日々でした。
そして何より——挑戦する勇気と、道を変えずに飲食で生きていく覚悟を、無意識にでも持てたこと。
それは、僕にとって奇跡に近い大きな収穫でした。
その経験は、やがて僕の生き方を形づくり、「アルナッジョ」の理念の芽を育てていくことになります。
ただ、こんなふうに整理して振り返れるようになったのは、ずっと後のことです。
当時は、情けなくて、悔しくて、未来なんてまったく見えなかった。
けれど、少しずつ料理の世界を知り、いろんな経験を積むなかで——あの1年は確かに「入口」だったのだ、と感じられるようになったのです。
そう気づけたのは、独立してから、随分と時間が経ってからのことでした。

第4章 リスタート 〜イタリアンレストランでの成長の日々〜
フランス料理店を退職してひと月も経たないある日、友人に辞めたことを打ち明けると、一枚の求人広告を手渡してくれました。
そこに書かれていたのは、学生時代に一度だけ訪れたことのある奈良の人気イタリアンレストラン。ずっと憧れていた店でした。
「応募してみたら?」
そのひと言に背中を押され、僕は迷わず「うん、行ってみる」と答え、面接に応募しました。
あの時すでに、心の中には自然と育ち始めていたものがありました。
「もっとできるようになりたい」
「もっと美味しいものを知りたい、つくりたい」
「料理で誰かを笑顔にしたい」
そんな想いが、確かに僕を支えていたのです。
そして迎えたイタリアン初出勤の日。
いきなり社長からこう言われました。
「君、夏向けのデザートを考えてみてくれ」
たった1年の現場経験しかない僕に、いきなりアイデアを出せというのです。
驚きながらも、必死に頭をひねり、これまでの経験を振り返りました。
そして、あのチョコレートムースに使ったイタリアンメレンゲの技法を応用し、アイスケーキのような一皿を考えたのです。
それは即採用され、翌週からお客様に提供されることになりました。
さらに追い打ちをかけるように、次の月にはこう告げられます。
「来月からランチの前菜3品と、パスタ3品。月替わりで君が考えてくれ」
そこから僕の生活は一変しました。
休みの日も、仕事終わりの夜も、頭の中は料理のことでいっぱい。
本屋に通い詰め、専門書を買い漁り、四六時中レシピや構成を考え続けました。
もちろん「荷が重い」と感じるプレッシャーもありました。
けれど不思議と、それ以上に「夢中」になっていました。
「美味しい!を届けたい」「美味しい料理を考えたい」——この感覚が僕を動かし続けたのです。
自分で料理提案をしたことのない人にとって、「任される」というのは大きな責任です。
でも、やってみれば見えてくることがある。
「やればできる」ではなく、
「やってみたから、意外とうまくいった」
「やってみたから、直すべきポイントがよくわかった」
その積み重ねが、僕をどんどん前へと進ませてくれました。
店長とのやりとりを繰り返すなかで、料理の組み立て方や味のまとめ方、現場での段取り力までもが磨かれていきました。
前職で叩き込まれた「仕込みのスピード、段取り、整理整頓、時間配分、原価意識、そして繰り返し作り続けたデセールの技術」。
その土台が、ここで確実に生きていました。
イタリアンのシンプルな技術は、自分の中にすっと入ってきて、学びはぐんぐん血肉になっていきました。
それまでの「怒鳴られて覚える修業」とは違い、ここでの学びは——
「任され、考え、自分の力でかたちにする修業」へと変わっていったのです。
そして気づけば、4年。
料理人としての自信と、確かな成長の手応えを感じていました。
——同時に、その心の奥には、小さな“渇き”が芽生えていたのです。
「もう一度、フランス料理を深く学びたい」
「このままでは、自分はまだまだ小さいままだ」
フォアグラやオマール、手の込んだソースや本格的なデザート。
そして、星付きレストランの世界。
あの、一番難しいと思ってきた舞台に——今なら挑めるかもしれない。
かつて逃げるように去ったフランス料理の厨房。
でも、イタリアンでの4年間が、僕に「挑む力」と「自分なりに表現する力」を与えてくれました。
あの頃とは違う。今の自分なら、もう一度あの舞台に立てる。
そう強く思うようになっていました。

そんな折、かつての同期がフランスで修業しているという話が耳に入ってきました。
現地のレストランで、日本人シェフが星を目指しているというのです。
その瞬間、心の奥で何かが跳ねました。
——今しかない。もう一度、自分を試したい。
気づけば僕は、紹介の機会を得て、渡仏の準備を進めていました。

次の挑戦は、フランス。
本当の“壁”と出会う日々が、もうすぐそこまで迫っていたのです。
第5章 フランス修業と“理念の芽”
現地で僕を迎えてくれたのは、日本を離れ、フランスの地で星付きレストランを目指して奮闘する、江戸っ子気質の日本人シェフでした。
その厨房に一歩足を踏み入れた瞬間、全身を覆ったのは、張り詰めた熱気。
シェフの料理には思想やアイデア、感性がぎゅっと込められ、どの一皿にも一切の妥協がない。
その緊張感を支えるために、スタッフ全員が研ぎ澄まされた集中を保っている——。
僕もまた、その流れに呑み込まれ、身を置くことになったのです。
ある日、「ミシュランの調査員らしい人物が来ている」という情報が入ったときのこと。
心臓が跳ね、手が震え、盛り付けの皿がかすかに揺れました。
すると、隣にいたシェフが低く鋭く、短く放ったのです。
「集中しろ。緊張を、集中で押さえろ」
その一言が、胸を突き刺しました。
「シェフは緊張しないんだ。。。」そう思い
震えた手元を、ただひたすら見つめて動かす。
自分の目の前の作業に、すべてを注ぎ込む。
——あのとき初めて、「思いを形にする」という感覚を、全身で理解できた気がしました。
かつてビストロで「自分はダメだ」と思い込んでいたのは、結局、
自分が勝手に作った起きてもいない恐れや評価への不安でした。
自分がしたい事に向き合えている幸せ、今ある幸せを感じる。
シェフの生き様は、本当にかっこよく、足を引っ張る存在にならないようにと思うのでした。

パリ郊外、森に囲まれた村での暮らしもまた、強烈な学びでした。
休日、近所のコンビニのようなスーパーでさえ日本では考えられないくらいにありとあらゆる食材がそろいしかも安いのです。
そんな食材は新鮮で味も抜群。仔羊を調達して、住んでいた部屋の裏手の茂み(森の一部)に行くと、セップ(ポルチーニ)やジロールが自生しています。それを摘んで持ち帰り買ってきた仔羊肉と合わせて、軽い煮込みをつくる。
驚くほど濃い味わいの野菜。安すぎて美味しいワイン。
それらが日常の食卓を満たしている。
シェフの買い物に同行したときの光景は、忘れられません。
フランスの人々は、まるで料理人のように素材を吟味し、会話を弾ませながら食材を選んでいる。
食材を買うかどうか迷わず、例えば葡萄なんか味見してから決めるその姿は
えっ?それ勝手に食べていいの?っておもってしまうけど
あまりにも大量に陳列しているから、味見したところで注意されることなんてない世界。
日本で、巨峰を一粒味見なんてできないですよね。
チーズやハムなども店員さんと話しながら、味見して購入するものを決める。

「食べること」は本当に豊な暮らしそのものになっている。
それを前にして、僕は息を呑みました。
シェフの家に招かれたときもそうでした。
テーブルには、大きな鶏の半身をトマトとジャガイモとともにローストした料理がどんと置かれ、家族の会話がその周りを彩る。
「この料理はおばあちゃんのレシピなんだよ」
「今日の鶏はあの農場のものがよかった」
「どの部位を誰が食べるか」
テレビではその年に大流行した映画『タイタニック』の主題歌を歌っていたセリーヌ・デュオンが出演していたけれど、誰も画面に目を向けない。たぶん食事の時、どの家庭もテレビはBGM程度にしかなってない。
目の前の料理と、食卓を囲む時間こそがすべて。
——これこそが、美食の国フランスなのだと。

さらにシェフから聞いた衝撃的なエピソードがあります。

フランス人の女の子とドライブをしていたとき、車が「ドン」と何かを轢いたようで
降りて確認すると、それはウサギでした。
彼女は迷うことなくそれを抱え上げ、「明日、お母さんに料理してもらおう」と笑ったそうです。
「どうしよう!?」ではなく、「ラッキー!」。
その価値観の違いに、シェフも衝撃を受けたと話していました。

そういえば、シェフの娘さん(当時4歳くらい)は庭で見つけたかたつむりを見て、おいしそ~!って言っていた

こんな濃密な日々を過ごし、僕は帰国しました。
技術が劇的に伸びたわけではありません。
けれど、あらゆる経験を通じて「自分の店をするなら、これまでの経験をどんな料理でどう表現していくか」
自分のテーマを探す段階になったのです。
「もっとフレンチを深める」ではなく、この学びを“横に広げて積み上げていく”。
そういう感覚でした。
見方を変えれば、「早く自分の場所を持ちたい」という焦りだったのかもしれません。

そして、このフランスでの体験のすべてが、のちに僕自身の理念——
「真心ある食」 という想いの芽になりました。
“食べることは、ただの栄養補給ではなく、人生そのものを味わう時間”
その気づきが、確かに自分の中で息づき始めていたのです。
第6章 再出発と素材への目覚め
フランスから帰国した僕を、意外なかたちで迎えてくれたのは、かつて働いていたイタリアンレストランでした。
一度は修業を終えて退職したその店から、「料理長として戻らないか?」という声をかけてもらったのです。
自分にはまだ早いかもしれない——そんな不安もありました。
けれど、フランスでの経験が背中を押してくれました。
「今の自分にできる最大限の仕事をしよう」
迷わずその申し出を受け、僕は料理長として新たな一歩を踏み出しました。
同じ頃、結婚という人生の節目も迎えていました。
新しい家庭、そして責任あるポジション。
心のどこかに残っていた焦燥や迷いに、ようやくひとつの着地点が見え始めた時期でもありました。

そんなある日、妻の実家・和歌山県白浜から届いた段ボールいっぱいの野菜を前に、僕の料理人人生は再び大きな転機を迎えます。
祖父が送ってくれた無農薬の野菜。
何気なく人参をかじった瞬間——僕の中で何かが静かに、けれど確実に変わり始めました。
「……なんだ、この味?」
驚くほど甘く、香りが豊かで、土の匂いがやさしく広がる。フランスで体験した人参も相当に美味しかったけど、また別の味わいが。
店で毎日使っていた人参は、大量に流通している慣行農法のもの。それとは、まったくの別物でした。
「そらそうやん。おじいちゃんが、農薬も化学肥料も使わずに、大事に育てた野菜やもん」
妻のひと言が、僕の“料理観”を根底から揺るがしました。
それまで僕は、フランスのような力強い素材はなかなか入手できないし、しかもかなり高価なので、
火入れやソース、味付けといった“テクニック”で料理を魅せようとしていたのでした。
けれど、本当に心に残る味というのは、素材そのものにある。
そして、その素材には、作り手の“想い”が宿っている。
ここから始まったのが、「素材に目を向ける」という新しい観点でした。

白浜を訪れるたび、僕は直売所に立ち寄るようになりました。
土の香りを放つ不揃いの野菜を手に取り、どんな人がどんな土地で育てたのかを想像する。
ただの「使える食材」ではなく、「向き合う相手」として野菜を見るようになっていったのです。
当時、店には北海道からも驚くような食材が毎週届いていました。
生きたままのホタテ、ぷりぷりの水ダコ、掘りたてのじゃがいも、もぎたてのとうもろこし……。
どれもが圧倒的な鮮度の良い素材ばかりでした。
白浜の野菜と、北海道の海の幸。
この“本物たち”に日々触れながら、僕は次第に気づいていきました。
——「素材の声を聞く」という感覚。
味を“つくる”のではなく、素材に“寄り添う”こと。
その感覚は、僕を大きく変えていきました。

その象徴となったのが、母のトマトジュースから生まれたスープでした。
幼いころから夏になると必ず飲ませてくれた、母お手製のトマトジュース。裏庭で育てたもぎたてのトマト。
丁寧に育てたトマトを子供でも美味しく飲めるように甘さを工夫をして作ってくれていたんだろう。その記憶をもとに、フレンチの技法とイタリアンの軽やかさを掛け合わせてスープをつくり上げました。
完熟トマトの甘みと酸味を生かし隠し味にハチミツで奥行きを出し、冷たいジャガイモのスープに仕上げにバジルの香りを添える。
試作を何度も重ね、ようやく完成したスープは、瞬く間に人気メニューとなりました。
さらに、フランスで学んだデザートをアレンジして提供すると、これも大好評。
特にランチタイムでは、スープとデザートを楽しみに来てくださるお客様が増え、客数は倍以上に膨らんでいったのです。
「自分の料理が、お客様の日常を変える」
その手応えは、大きな自信となりました。

ただ一方で、この頃の僕にはまだリーダーとしての未熟さが残っていました。
部下との関わり方に正解を見つけられず、衝突することもしばしば。
俺についてこい!的なふるまい。実際には自分のことで精一杯で、仲間の声に耳を傾ける余裕はありませんでした。
その未熟さを自覚できるようになるのは、もっと先のこと。
けれど、この時期の経験は「人に寄り添う」というテーマを学ぶための、大切な伏線になっていたのだと思います。

スープの成功、デザートの人気、そしてお客様の笑顔。
料理人として得た自信は、やがて「そろそろ、自分の店を持ちたい」という強い思いへと変わっていきました。
まだ未熟さを抱えたまま。
けれど勢いに背中を押されるようにして、僕は独立へと突き進んでいったのです。



第7章 夢の扉をひらく

一冊の雑誌が、未来を決定づけた夜

ある日、一冊の料理専門誌が、僕の心を大きく動かしました。
何気なく手に取った特集ページに掲載されていたのは——

「東京・西麻布 リストランテ寺内」

炭火で焼いただけの野菜。
炭火で焼いただけの豚ロースとフィレのティーボーンステーキ。

写真から伝わってきたのは、技術や装飾ではなく、“力強さ”と“静かな洗練”。

「すごい!……」
気づけば電話を握りしめ、次の休日には東京行きの切符を手にしていました。

案内されたのは、厨房がよく見える特等席。
奥の炭火台の前に立っていたのは、圧倒的な存在感を放つ寺内シェフ。
まるで炎と食材と会話をしているように、一瞬たりとも視線を逸らさず、焼き上がりの瞬間を逃さない。
その集中力は、フランス修業時代に出会ったシェフと重なる“本気”の姿でした。

運ばれてきた炭焼き野菜の一皿は、写真以上の迫力。想像を超えるとは、まさにこのこと。
赤紫色のラディッキオ・ロッソをはじめ、見慣れた人参やズッキーニでさえ、まるで別物のように焼き上げられていました。

ひと口頬張るたびに、炭の香ばしさとともに、野菜本来の甘みや旨みがあふれ出す。
ただ塩とオリーブオイル、パルミジャーノだけで、ここまで完成された一皿になるのか——。


「アスパラガスって、こんなに甘いんや」
「にんじんって、焼くだけでこんなに香るのか」
「パプリカが、まるでフルーツや……」

続く豚のティーボーンステーキからは、脂の甘さとジューシーな旨み。
付け合わせのズッキーニは、まるでソースのように肉の旨みを引き立てていた。

ソースに頼らず、素材そのものが主役になる料理。
塩がなんかウマイ、、、オリーブオイルの味が野菜と合わさりソースに感じる、、、パルミジャーノ・レッジャーノは少し添えるだけで凄い存在感。

それは、僕がこれから進むべき道のヒントそのものでした。

——「いつか、奈良の地で、この料理を表現したい」
あの夜、僕の中でその思いがはっきりと輪郭を持ちはじめました。

「食卓の原点」を思い出させてくれた夜

もう一つ、忘れられない夜があります。

当時、僕たち夫婦は、2歳の長男をベビーカーに乗せてよく外食に出かけていました。
目的はどちらかといえば「僕自身の勉強のため」。フレンチやイタリアンを中心に巡りました。

けれど現実は厳しかった。
子連れお断り、完全な静寂が求められる雰囲気、他のお客様の視線。
まるで子どもが“いてはいけない場所”のように扱われる空気感に、僕は疑問を抱くようになりました。

「レストランで過ごす時間の価値って、一体何なんだろう?」
「僕が本当にしたいことって、何なんだろう……」

そんなある日、妻が結婚前にアルバイトで働いていた
欧風料理のお店「Le Gros chat」尾持さんのお店を初めて家族で訪れました。
尾持さんは奈良では珍しい、ソムリエ資格を持つオーナーシェフでした。
妻に聞くところ、ワインの大好きな方が集まるお店でマニアックな人も来るけど、陽気で明るいお客さんが多く集まって楽しくオシャレに食事できると。
そんなお店に子連れでフルコースをいただくなんて無謀にも思えましたが、尾持さんはまるで家族のように迎え入れてくれたのです。

「お、よく来たね」
そう笑顔で声をかけてくれる尾持さん。
料理をサーブする合間に、尾持さんはベビーカーに座っている息子をひょいと抱き上げ、やさしく語りかけてくれました。
僕たちが落ち着いて食事を楽しめるように気を配りながら、同時にワインの産地や特徴、香りや色合い、味わいの変化、料理とのペアリングの醍醐味を、ユーモアを交えて食事を進めてくれたのです。

その夜、僕たち家族は久しぶりに「心からくつろげる食卓」を味わうことができました。
ただ食べるだけでなく、料理とワイン、そして会話がひとつになって、温かい時間が流れていく。
その体験が、僕の中に眠っていた小学校1年生の頃の記憶を鮮やかに呼び起こしてくれたのです。

——家族5人で囲んだにぎやかな食卓。
父の問いかけ、母の手料理、家族の笑い声と安心感。

「ああ、懐かしいな……」
いつの間にか忘れていた“食卓の原点”を思い出したのです。

僕がするレストランは、
家族と笑い合い、心を交わす「場」にしたい。

——「僕にしかできないことを、しなければ」
おぼろげに、目指すレストランが見えた夜でした。

ご縁がつながった「場所」

やがて尾持さんから、思いがけないお声がけをいただきました。
「実は三重に新しくできるリゾートホテルで、有名なフランス人シェフのもとで、ソムリエとして働けることになったんだ。だから、この店を君に引き継いでほしい」

厨房設備もそのまま使える居抜きという条件は、開業資金を大きく抑えられる僕にとって、この上なくありがたいものでした。
そして何より、この店は僕に“食卓の原点”を思い出させてくれた特別な場所。
ここからなら、自分の目指すレストランを始められると確信できたのです。
「生駒しかない」
そう思ったとき、これまでに見た夕焼けが重なり、胸の奥いっぱいに広がっていきました。

父が元気だったころ。
食卓の明かりとともに眺めた生駒山の夕焼けは、やさしく、そして明日を約束してくれるように赤く染まっていたのです。

父が倒れてからの夕焼けは、どこか哀しげに見えました。
赤く沈む山影を仰ぐたびに胸の奥がきゅっと痛みましたが、それでも「きれいやなぁ」とつぶやかずにはいられませんでした。

そして今。
同じ夕焼けを見上げたとき、そこには静かな決意が芽生えていました。
寂しさと希望が重なり合い、「この山のふもとで生きていこう」という願いを、そっと胸に刻み込ませる光になっていたのです。

振り返れば、生駒の夕焼けは、いつも変わらずそばに寄り添っていました。
温かな日も、失う痛みに暮れた日も、そして新しい一歩を踏み出す日も。
赤く染まり、沈み、また昇る——そのたびに、僕は心の奥で言葉にならない願いを抱き続けてきたのです。

——あの日、夕日に願ったこと。

 

ナチュラレッツァの誕生
2003年、32歳の春。
僕は生駒の地に「炭火焼イタリア料理 ナチュラレッツァ」を開業しました。

Naturalezza——イタリア語で「ありのまま」を意味する言葉。
妻と一緒に考え、たくさんの願いと感謝を込めて名付けました。

コンセプトは「生産者の想いを、ありのままに伝える」こと。
ナチュラレッツァは、僕ひとりの想いから生まれたのではなく、これまで多くの方からいただいた教えやご縁へのリスペクトそのもの。

太陽のように笑顔で野菜を届けてくれる農家の方々。
イタリアの風を感じさせる食材を紹介してくれる方。
想いが詰まった天然酵母のパンを焼く職人。
料理を完成させる器をプロの視点で提案いただける方。
そして、料理人としての在り方を示してくれた尊敬するシェフたち。

この想いが重なり合って、初めて「ナチュラレッツァ」という店が形になったのです。

——こうして、僕の“夢の扉”は静かに開かれました。

第8章 試練の始まり
停滞と問い、そして再起動
ナチュラレッツァを開業してから数年。
ありがたいことに、料理への評価は想像以上に好意的で、多くのお客様に支持されるようになっていました。
けれど、そのなかで、僕の心にはふとした“違和感”が芽生えはじめていました。
——家族との時間を取り戻したい。
——もっと、子どもたちの笑顔が見たい。
そんな思いで店の在り方を見つめ直したとき、僕はようやく気づいたのです。
ナチュラレッツァはいつの間にか、“大人のための店”になっていたのだと。
素材には誰よりも自信がありました。
むしろ「子どものうちから本物の味に触れてほしい」という思いを込めて、食材選びには徹底的にこだわっていました。
けれど、それはあくまで僕の目線。
料理の構成も、雰囲気も、価格帯も、家族が気軽に楽しめる空間ではなくなっていたのです。
そこで、ある試みをしました。
店のガスオーブンを使ってピッツァを焼いてみたのです。
「これなら子連れのお客様にも喜ばれるかもしれない」
そう考えて。
すると、予想を超える反響があり、次々と注文が入ってきました。
けれど同時に、炭火焼イタリアンとしてのオペレーションは乱れ、厨房全体の流れに歪みが生じてしまったのです。
そんな迷いのさなか、ある女性スタッフがまっすぐに僕を見て言いました。
「このままの人生で、本当に満足ですか?」
「1店舗だけで、こじんまりとやっていくつもりなんですか?」
「オーナーが本当にやりたいことって、それだけなんですか?」
その瞬間、胸の奥がズシンと重く沈みました。
まるで、何も考えず全力で投げた球を、スコーンとホームランに打ち返されたような感覚。
「おれ、なにやってんだろう……」
たしかに、目的を見失っていた。
“何のために?”が抜け落ちていたことを、見抜かれてしまった。
その問いは痛烈で、誤魔化しようがなく、けれど不思議と胸の奥で小さな炎を灯しました。
忘れかけていた情熱に、再び火がともったのです。

もう一度、家族で笑える食卓を求めて
転機は、思いがけないかたちで訪れました。
ある日、テレビで放送されていたナポリピッツァ特集。
薪窯の炎と対話するように生地を操る職人の姿に、僕の目は釘付けになりました。
その瞬間、10年前の記憶が鮮やかに蘇ったのです。
前職のイタリアンレストランに勤め始めた頃、京都での研修会で食べた一枚のピッツァ。
もっちりとした生地、薪の香ばしさ、トマトとモッツァレラだけの潔い美味しさ。
当時の僕は「これは自分のやりたい料理じゃない」と偏見を抱き、心の奥では嫉妬していました。
「美味しいのに、認めたくない」——あのときの感情は、まさに“嫉妬”でした。
けれど、今は違う。
「これだ……これがやりたい」
「このピッツァを、家族と食べたい」
その衝動に駆られ、ちょうど神戸に遊びに行っていた家族を連れて、ナポリピッツァの専門店を探しました。
薪窯の炎、笑顔のスタッフ、食欲をそそる香ばしい空気。
運ばれてきたピッツァを家族で切り分け、ワイワイと頬張る。
チーズがのび、子どもたちが笑い、妻が笑い、僕も心から「楽しい」と思えた。
——その光景は、間違いなく“もう一度、家族で笑える食卓”でした。
尾持さんが思い出させてくれた“食卓の原点”。
それがここで再び、現実のものとなったのです。

運命の再会、そして新たな挑戦へ
その後、あまりの美味しさと楽しさに、僕たち家族はその店に何度も通いました。
回を重ねるごとに、「絶対に自分でもピッツェリアをやる」と、心が決まっていきました。
ただ、知識も技術もまったくない。
あったのは——偶然か、ご縁か。京都のナポリピッツァ専門店に後輩が勤めていたこと。
その後輩に頼み込み、「一から学ばせてもらえないか」と紹介をお願いしました。
ありがたいことに、受け入れてもらえることになったのです。
初めて訪れたその夜。思いもよらない“再会”が待っていました。
——そこに立っていた店長は、10数年前の研修会で、あの衝撃の一枚を焼いてくれた本人だったのです。
彼こそが、のちに「ピッツェリア・ダ・ユウキ」を開業し、京都を代表するナポリピッツァ職人として知られる鎌田シェフでした。
炎の前に立つその姿を見た瞬間、僕の中で10数年という時を越え、すべての点が一本の線として繋がりました。
かつて憧れと嫉妬が入り混じった一枚のピッツァ。
それが今、家族の笑顔を呼び戻す希望となり、そしてそのピッツァを焼いた本人と再び巡り会えた。
——すべては必然だったのだ、と。
そこからは毎週のように京都へ通いました。
ナチュラレッツァでの仕込みを終えた夜、車を走らせ、生地の練り方、発酵の見極め、伸ばし方を一から学び続けました。
粉と水と塩と酵母だけ。
フレンチやイタリアンで磨いたテクニックではごまかせない、究極にシンプルで奥深い世界。
大家さんの許可を得て、ナチュラレッツァの裏に石窯を設置する小屋を築き、何百枚というピッツァを焼き、試行錯誤を重ねました。
生地の息づかいを感じ、火の声を聞き、ようやく自分の中で「これだ」と思える瞬間を探し続けたのです。

アルナッジョ誕生、そして家族の時間
資金も、場所も、人材も、機材も。どれひとつとして簡単ではありませんでした。
それでも僕を突き動かしたのは、揺るがぬ「切り拓く」という想いと、“家族で楽しんでもらう”という願いでした。
そして2007年8月。
石窯を備えたピッツェリア「アルナッジョ」を開業。
Allunaggio——イタリア語で「月面着陸」。

東生駒月見町という地名の「月」と
誰もやったことのないことに挑戦する、大きな一歩を踏み出す。
そんな意味を込めた、この名を選びました。
ナチュラレッツァに込めた「生産者の想いを伝える料理」と、ピッツァがもたらす“家族の笑顔”。
その二つを重ね合わせた店づくりが、ここから始まりました。
石窯の炎が見えるアルナッジョには多くの家族が集まりました。
焼きたてのピッツァを分け合いながら、笑い声が響く。
それはまさに、僕が夢見た光景でした。
2007年に開業して以来、ここには数えきれないほどの物語が積み重なってきました。
当時小学生だった女の子が、今では二人の子どもを連れて三世代で訪れてくれる。
カップルで来ていたお客様は、やがて子どもが生まれ、その子が今では高校生になっている。
アルナッジョは、ただのレストランではなく、
“家族の歴史を刻む場所”になっていったのです。

経営者としての試練
けれど、夢の新店舗を立ち上げたその裏で、ナチュラレッツァには新たな問題が生まれていました。
店舗を任せたスタッフたちと、僕の間に少しずつズレが広がっていったのです。
「経営とは何か」
「人を育てるとはどういうことか」
料理人としての自信はあっても、経営者としての視点は圧倒的に足りていなかった。
指針を示さず、「自由にやってくれ」と任せることが、かえって放置になっていた。
当時の僕は、それでもきっと皆がワクワクし、難題に挑戦する楽しさを感じてくれるはずだと信じていた。
けれど、それは僕の思い込みだったと理解するまでかなりの時間を要しました。
ときに衝突し、ときに背を向け合い、関係はぎこちなくなっていく。
「俺についてこい」と言えるほどの力も示せず、指針すら与えられない。
その未熟さこそが、経営者としての僕に突きつけられた大きな課題でした。
新しい夢をつかんだはずなのに、同時に現実の壁を目の前に突きつけられる。
——それが、経営者としての僕に訪れた“試練の始まり”だったのです。
第9章 縁がつないだ再会
忘れられない名前、ジャン=ジャック
アルナッジョを開業して数年が経ったころ。
尾持さんと話していたとき、ふとした会話から、思いがけない名前が飛び出しました。
——ジャン=ジャック・ブラン。
それは、僕が料理の道を歩きはじめたばかりの頃。
怒られてばかりだった若き日の僕に、ただ一度「美味しい!パルフェ!(完璧!)」と褒めてくれたフランス人シェフの名前でした。
ビストロ時代、必死でつくったムース・オ・ショコラを「美味しい」と認めてくれた、そのひと言。
あの言葉がなければ、僕はきっと自分を信じ続けることはできなかった。
間違いなく、僕の自己肯定感を支える大切な“礎”でした。
そして驚くべきことに——
尾持さんが三重県のリゾートホテルで共に働いていたシェフこそが、そのブラン氏だったのです。
胸の奥が一気に熱くなり、あの時の感覚が全身を駆け巡りました。
「まさか……あのジャン=ジャックが三重県に、そして尾持さんとつながっていたなんて」

尾持さんが連れてきてくれた再会
しばらくして、尾持さんは本当にジャン=ジャックをアルナッジョに連れてきてくださいました。
ドアが開き、懐かしい面影のままのブラン氏が、わざわざ奈良の地を訪れてくれたのです。
その姿を目にした瞬間、胸がいっぱいになり、時が巻き戻るような感覚に襲われました。
僕はその日のために、丁寧に記憶を辿りながら、あのムース・オ・ショコラを作りました。
震える手で皿を差し出したとき、こみ上げる感情を抑えきれず、思わず涙が溢れていました。
「メルシー……」
ただ、その一言を伝えるのが精一杯でした。

人生を支えたひと言
ジャン=ジャックは、僕の涙に驚いたようでしたが、やわらかい笑顔で応えてくれました。
彼は、ビストロ時代にスタッフを研修に招いたことや、食べに来てくれたことは憶えていたそうです。
けれど——僕のことは覚えていませんでした。
けれど、それでよかったのです。
大切なのは、彼が過去にくれたたった一言。
——「美味しい!Parfait!(完璧!)」
その言葉は、時を超えて僕を支え、今なお挑戦する勇気を与えてくれていました。
料理は、人をつなぎ、時間を超え、ご縁を紡いでいく。
そしてそのご縁が、また新しい挑戦へと背中を押してくれる。
——ジャン=ジャックとの再会は、そんな奇跡のような真実を、静かに教えてくれたのです。
第10章 地域とともに、“循環”を目指す挑戦
愛すべき生駒の地で、夢は続く
新しい拠点となったアルナッジョで、僕は改めて地域とのつながりの大切さを実感することになります。
「兄ちゃん、これ、いっぱい採れたから買うてってちょーだい!」
カランカラン!と扉が開くたびに、小明町や鬼取町の生産者さんたちが、朝採れの野菜を直接届けてくれる。
まだ土の香りが残る、形の不揃いな野菜たち。でも、そのひとつひとつに、圧倒的な生命力と作り手の想いが詰まっている。
この土地で出会った人々の温かさ。野菜たちの“ありのまま”の美しさ。
それを炭火焼(ブラーチェ)や窯焼き(フォルノ)といった、シンプルで原始的な調理法で届けることが、僕の役割でした。
「何気ない日常こそが、最高のごちそうだ」
そう気づかせてくれたのは、間違いなく、生駒の畑と、ここで暮らす人々でした。

秋山さんとの出会い —— 循環の夢
そんなある日、ひとりの人物との出会いが、僕の人生を大きく動かしました。
自然農法に取り組む生産者・秋山さんです。
「この生駒の地で、なんとかして循環型の農業を実現したいんです」
畑に立ちながら、地域の未来をまっすぐ見つめるその眼差しに、僕は心を打たれました。
思わず口をついて出たのは——「一緒にやろう」でした。
この土地で育った野菜を、またこの土地に還せないか?
地域の食料残さを豚の餌にし、その排せつ物を堆肥に変え、畑を豊かにする。
その畑で育った野菜が、再び料理となって人の食卓を彩る。
食の“循環”をこの地で成立させたい。
そんな壮大な夢に向かい、僕は個人事業主だったナチュラレッツァを法人化しました。
「農業が主体の会社が、レストランを発信拠点にする」という挑戦の始まりでした。

想いだけでは進めない現実
けれど現実は、想像以上に厳しいものでした。
養豚業の構想は、土地探しや規制の壁に阻まれ、進めば進むほど遠ざかっていくような感覚。
理想だけでは前に進めない——そんな現実に、何度も心が折れかけました。
そのなかで出会ったのが、自然農を実践しながらフリースクールを運営する石尾さん。
「自然界から学ぶ、多様性のあり方を広めたい」
そう語る彼の姿もまた、「生き方としての農業」を体現していました。
秋山さんや石尾さんのように強い想いを持ち、素晴らしい作物を作る人たちでさえ、経営の壁に苦悩する。
その姿は、かつて何もできずに悔しさに打ちひしがれていた自分と重なりました。
僕は幸運にも多くの出会いに恵まれ、困難を乗り越えてこられた。
だから今度は、立ち止まっている彼らのために何かしたい——そう強く思うようになったのです。

想いを「かたち」にするために
彼らのつくる野菜や食材の価値を、もっと多くの人に伝えたい。
彼らの“想い”を、料理や商品として形にして届けたい。
そして売れれば売れるほど、ちゃんと収入につながる仕組みをつくりたい。
では、そのすべてを満たす手段は何か?
考え、悩み、辿り着いた答えが——クラフトビールでした。
地元の農産物を副原料に活かせば、野菜や果実に新たな命を吹き込める。
語り継ぎたい“生産者の想い”を、ビールという形で全国、そして世界に届けられる。
クラフトビールは、農業と食卓、地域と人をつなぐ“循環”の新しいカタチ。
それは、ナチュラレッツァから続く僕の挑戦の延長線上に、静かに、けれど確かに芽吹いていたのです。
月面着陸から、次なる挑戦へ
「Allunaggio(アルナッジョ)」はイタリア語で“月面着陸”を意味します。
それは、未知の世界に挑み、誰も足を踏み入れたことのない場所へ飛び込むそんな僕の覚悟の象徴でした。
あのとき、生駒に石窯を据えてピッツェリアを開業したことは、僕にとっての“月面着陸”だった。
そして今、クラフトビールという新たな挑戦は、
次なる「宇宙への航海」のように思えます。
——夢は続いていく。
地域とともに、農業とともに。
そしてクラフトビールを通じて、“循環”という未来を切り拓いていく。
エピローグ 物語は続いていく
アルナッジョが18周年を迎えた今も、僕の挑戦は終わっていません。
ピッツァを焼きながら、過去に出会った人々の“想い”とつながり続けています。
クラフトビールは、まだ準備段階。
けれど、これから必ず形にして、農業の未来や、生産者の情熱、そして家族の笑顔を映し出していきたい。
僕がやりたいことは、じつにシンプルです。
——「農業を、食文化の中心に戻すこと」。
生産者さんのまっすぐな想いを、料理やクラフトビールを通してそのまま届けたい。
飲んだ瞬間に「うまい!」と感じるだけじゃなくて、
「誰が、どんな想いで作ったのか」が伝わるように。
農業は“儲けるためのビジネス”じゃない。
生きること、食べることの土台そのもの。
だからこそ、これからの食文化やライフスタイルに欠かせないんです。
僕の挑戦は、クラフトビールをその入り口にすること。
畑から生まれたビールで、家族や仲間が笑い合える食卓を広げたい。
そして、これからも。
ふと見上げれば、夕焼けに染まる生駒山がある。
あの日からずっと、変わらずそこにあって、これからの挑戦を見守ってくれる。
その光に、また新しい願いを重ねながら、歩みを続けていきます。

100年先も、1000年先も、この想いが続いていくように。
まずは、生駒の仲間たちと一緒に——一杯のクラフトビール作りから始めます。
株式会社ナチュラレッツァ 代表取締役 山田辰尚